INICIAR SESIÓN男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。
凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。
玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。
男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。
「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」
男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。
話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め革の縫い目と、その脇に貼られた古いクロークタグが見えた。玲はそこへ約10秒だけ目を置いた。凌臣は煙草の灰を落としながら、玲が何を見ているか確かめるように1度だけ目を細めたが、何も言わなかった。
会談は1時間ほどで終わった。物流拠点の使用条件、保険、輸入品の名目、通関に関わる法人まで話は進んだが、凌臣はその場で契約を決めなかった。男も強く迫らず、「慎重さは信頼に値します」と笑い、立ち上がった。玲は玄関まで見送る間も表情を変えず、帽子を受け取る男の指先と、靴底に付着した薄い赤土まで記憶へ残した。
車が門を出たことを確認してから、玲は応接間へ戻った。凌臣はまだ同じ席に座り、灰皿へ煙草を押しつけている。卓上には男が置いていった財団資料と名刺が残されていたが、玲はどちらにも手を伸ばさなかった。
「偽物です」
凌臣の指が、新しい煙草を箱から抜きかけたところで止まった。
「何が」
「全部」
玲が即答すると、凌臣は数秒黙った。斑鳩井朔も同席したまま資料を見ていたが、その手が止まる。玲は卓の向かいへ回り、先ほど男が座っていた椅子の脇へ立った。
「まずスーツ。ラベルはサルトリア・ロヴェッリの上位ラインですが、仕立ては別です。生地自体は本物でしょう。ただ、肩線の処理と袖付けがロヴェッリではない。ボタンホールも手縫いに見せた機械縫いです。既製品を分解して、本物の生地とラベルだけ移植した可能性が高いです」
朔が眉を寄せる。
「そこまで見えるのか」
「正面から見れば。右肩だけ僅かに落ちてました。あのブランドは個人採寸なら補正を入れるので、あんな残し方はしません」
玲はさらに時計へ話を移した。文字盤は確かに1940年代末の正規品で、経年による焼け方も不自然ではなかった。しかしケースは約20年後の別個体のものに見え、裏蓋の刻印位置も年代と合っていない。ブレスレットはさらに新しく、修理で交換したという範囲を越えている。古い高級時計を何代も受け継いできた家なら修理履歴を残すことが多いが、あの時計は複数の部品を寄せ集めて「それらしく」作られていた。
「文字盤だけは本物です。ケースは後年交換、ブレスレットはさらに新しい。悪い物ではありませんが、代々受け継いだ時計という顔をさせるには雑です」
凌臣がようやく煙草へ火をつけた。
「本人はそんな話してねぇぞ」
「口にはしてません。でも見せ方がそうでした。袖口を上げる動作が多すぎる。あれだけ価値のあるヴィンテージを普段使いしている自分を見せたい。祖父の代からの資産家という話と組み合わせれば、こちらが勝手に家の歴史を連想するように作ってます」
凌臣の口元が僅かに歪んだ。面白がっている時の顔だった。玲は構わず帽子について続ける。
「一番分かりやすいのは帽子です。表のロゴは《ハロウェイ&クレイン》。ただし裏地の縫製が違う。縫い合わせのピッチが細かすぎるし、内側のリボン止めに使っている糸が東欧圏の工房でよく使われる規格です。3年前に倒産したブルガリアの《ステファノフ・アトリエ》と同じです」
朔が財団資料から顔を上げた。
「ロンドンの帽子に、潰れたブルガリアの工房?」
「ブランド物を中古で買って、内装だけ補修した可能性はあります。ただ、代々資産家を名乗る男が、来歴を見せたい会談にわざわざその帽子を選ぶのは不自然です。それに、もっと面白いものが付いてました」
玲は卓上のメモ用紙を引き寄せ、右手で数字とアルファベットを書いた。途中でペンを左手へ持ち替えても、文字の形は変わらない。書いたのは《R-417 BELLADONNA GRAND HOTEL》という文字列だった。
「帽子の内側、汗止め革の脇に古いクロークタグが残ってました。剥がした跡じゃなく、半分だけ残ってた。ホテル名まで読めました」
凌臣が眉を上げる。
「10秒でか」
「十分です」
玲はそう答え、朔の前にある端末を指で示した。
「《ベラドンナ・グランド・ホテル》で検索してください。表向きはモンテネグロの海岸沿いにある高級ホテルです。ただ、一般客向けサイトより先に、欧州の企業登記と過去の事件記録を当たった方が早い」
朔が端末を操作する。数分もしないうちに、ホテル名と複数の海外犯罪事件を結ぶ記録が出てきた。麻薬取引の仲介、武器密輸、制裁対象企業の代表者同士による会合。直接摘発されたわけではないが、国際的な犯罪組織の幹部が繰り返し宿泊している場所として、複数国の捜査資料へ名前が上がっている。
玲は画面を覗き込み、表示された宿泊記録の日付へ視線を走らせた。2年前、東欧系犯罪組織《ヴァルカ・ネットワーク》の幹部3人が同時期に滞在している。その1週間後、日本国内では複数のダミー会社が設立されていた。偶然として捨てるには時期が近すぎる。
「男の身元を《アルベリオ財団》側から追うより、ホテルの宿泊者とヴァルカ側から洗った方が早いですね。帽子を預けた時期が分かれば、クローク番号の417から宿泊者台帳へ辿れる可能性があります。ホテルがまともに記録を残していれば、ですが」
凌臣が低く笑った。
「物見ただけでそこまで分かんのか」
玲は肩を僅かに竦めた。
「物は人間より嘘が下手なので」
「気味悪ぃな」
「褒め言葉として受け取ります」
朔が小さく息を吐き、財団の資料を閉じた。玲の指摘を受けて見直せば、男が持参した書類にも不自然な点が見えてくる。財団の過去20年分の事業実績が異様なほど綺麗に並び、赤字事業も訴訟も内部対立もない。どれも人間が作った組織なら多少は残るはずの傷がなく、経歴として整いすぎていた。
「財団そのものは実在するんだろうな」
凌臣が問う。
「おそらく。完全な架空組織を名乗るより、実在団体の看板を借りた方が信用されやすいです。問題は、さっきの男が本当に正規の日本代理人かどうかでしょう。名刺の紙も少し気になりました」
「まだあんのか」
「紙質は高級ですが、財団本部が公開している公式書簡と繊維の方向が違います。印刷所が別なのか、本人が勝手に作ったのかまでは分かりません」
凌臣は煙草を咥えたまま、しばらく玲を見た。その視線には、4年間傍へ置いてなお計り切れないものを見る時の、僅かな苛立ちと興味が混じっている。玲は気づいていたが、特に反応しなかった。見えている物を見て、繋がるものを繋いだだけだ。
「お前、あの1時間、俺らの話聞いてたのか?」
「聞いてましたよ」
「服と時計と帽子ばっか見てただろ」
「同時にできます」
「ホテルのタグまで覚えて、話の内容も全部か」
「必要なら今から再現します?」
凌臣は一瞬黙り、やがて笑った。
「いらねぇ。気色悪い」
「2回目なので、そろそろ語彙を増やしていただけると」
朔の口元が僅かに緩む。凌臣は玲へ灰皿を投げる代わりに、机上のライターを指先で弾いた。玲は左手だけでそれを受け止め、何事もなかったように卓へ戻した。
「じゃあ、その偽物が何しに来たか当てろ」
玲は即答しなかった。今度は男の言葉を頭の中で最初から並べ直す。物流網を使いたいという提案、医療支援という名目、通関法人への関心、凌臣が契約を即決しなかった時にも焦らなかった態度。契約自体が目的なら、もっと条件を詰めたはずだった。
「こちらの物流網を借りたいんじゃないと思います」
凌臣の目が細くなる。
「続けろ」
「見に来たんでしょう。誰が会談へ出るか、どこまで情報を共有しているか、凌臣さんが何に反応するか。それと、俺がどこまで見抜くか」
応接間の空気が僅かに変わった。朔が端末から顔を上げ、凌臣の煙草の先端だけが赤く光る。玲は自分が口にした最後の部分を、もう1度頭の中で確かめた。
男は帽子を無造作に置いたように見えた。だが、わざわざ内側が見える向きだった。時計も不自然なほど袖口から覗かせていた。もし全てが単なる杜撰な偽装ではなく、見つけさせるための偽物だったとしたら、意味は変わる。
「……試された可能性があります」
凌臣の笑みが消えた。
「誰が」
「まだ分かりません」
玲はそう答えたが、胸の奥へ小さな違和感が残った。相手が自分の観察力まで事前に知っているのなら、燈城会内部の情報だけでは足りない。玻名城澪が物品鑑定に強いことは裏社会でも知られ始めているとはいえ、どこまで見抜けるかを試すためだけに、これほど手の込んだ偽物を揃える理由は薄い。
その時、朔の端末が短く鳴った。ホテル名を追っていた部下から追加情報が届いたらしい。画面を開いた朔の表情が僅かに硬くなる。
「会長。ホテルの417番クローク、2年前の利用記録が1件だけ残ってます」
玲と凌臣の視線が同時に向いた。
「名義は?」
朔は数秒黙ったあと、端末を卓へ置いた。
「宿泊者名義は架空です。ただ、チェックイン時に提示された身分証の発行国が日本。職業欄には――政府職員とあります」
玲は何も言わなかった。さっきまで単なる海外犯罪組織の偽装工作だと思っていた線が、突然国内へ伸びた感覚があった。机の上の財団資料は先ほどと同じように整然と並んでいるのに、もう慈善団体の書類には見えない。
凌臣は新しい煙草へ火をつけ、低く吐き捨てた。
「面白くなってきやがったな」
玲は返事をせず、男が残していった名刺へ初めて手を伸ばした。表面には金の箔押しで財団名と代理人名が記されている。その右下、肉眼ではほとんど気づかないほど浅い圧痕が、斜めから光を当てると浮かんだ。
玲の指が止まる。
同じ大きさの長方形が、名刺の裏側から押された跡。何かのカードと重ねて保管していた痕跡だった。そこに残る数字の一部を読み取った瞬間、玲の目から僅かな笑みさえ消えた。
それは、一般人が持つはずのない省庁共通入館証の桁構成と一致していた。
敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草
廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。「澪」低い声が廊下を渡った。「はい、組長」玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。「来い」「承知しました」玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。扉が開く。ま
男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め